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シュシュリナパブリッシング

「​土と土が出会うところ」に出会って   東野翠れん(shushulina publishing)

「土と土が出会うところ」は、栃木県​益子町によって発刊されていた季刊誌「ミチカケ」に連載された、町田泰彦さんの文章を一冊にまとめたものです。

初めて町田さんに会ったのはずいぶん前のことで、私は高校生くらいで、町田さんは大学を卒業したばかりだったと思います。実家に遊びに来る不思議な人たちの中に、町田さんもいました。周りの人がみんな、やす、と呼んでいたので私もそう呼んでいますが、その内やすは家族と暮らすための家を益子に建てはじめました。家族が増えるにつれて、東京で会うよりも益子にいる町田家に会いに行くことのほうが増えました。

益子のその敷地にはぽつりぽつりと、自身で建てた家が、土や木々に馴染むように増えていきました。他にも、本人が立ち上げに関わった「ドライブイン茂木」に遊びに行ったり、浜田庄司記念益子参考館を巡ったり、陶芸家の釜や作業場を訪ねたりと、益子へ行くことは土の近くで暮らす人々の気配に触れることでもありました。

 

この数年は、映像作品「ハトを飛ばす」で朗読をさせてもらったり、「花あかり」という文章に声をのせたりと、町田さんの文章を読む機会が増えていました。その延長で「土と土が出会うところ」という連載を一気に読みました。色々な想いが湧きあがり、すぐに感想を送りました。そして一冊にしたほうがいい!と思いました。もう誰かがどこかで一冊にしているような気がしたけれど、電話で話しているうちに、その予定はないことが分かりました。そして、誰もやらないのなら、、出来ることを出来るところまでやってみようと「土と土が出会うところ」の本づくりが始まりました。

私は写真を撮るのが好きです。そして写真や言葉の内側にある世界が、外の世界と繋がりそうな瞬間が何かのきっかけでうまれます。

 

そんな時、本にしてみたり、展示をすることもあります。

 

そうした活動をしていると、時間という感覚はなくなっていきます。それは、写真を通して身体に入ってくる光や、光によって浮かび上がる様々な色のグラデーションが、時間のない場所に私を連れ出しているのだと思います。

今朝は日差しが気持ちよく、ベランダでまどろんでいると、朝日の隙間からは秋のひんやりした空気が流れてきました。目をつぶると、まぶたには光が透けてピンクやオレンジに滲んで揺らいでいます。撮りたい世界が、目をつぶった時にもある、、。この感覚を写真にしているのだと改めて感じる朝でした。

 

そうして部屋に戻ると、久しぶりに絵を描きたくなりました。たくさんある色鉛筆から何色か選んで描き始めました。そして、描きながら気づいたのです。描いているのは「土と土が出会うところ」に出てくる不思議な生物「みずろく」でした。

何度も読んでいるうちに、私の中にもひたひたひたと「みずろく」がうまれて、住みはじめていたようです。

生活音からもはみ出るような聞きなれない音や、目的地のない旅の景色が「土と土が出会うところ」には記されています。それも、水彩絵の具の色と色が重なってできたような自由な文体で。

 

そして、時間の枠からはずれた場所にあるかもしれないこの本を、一番必要としていたのは私だったのかもしれないということに、今朝気がつくことができました。

はじめに

はじめに ​ 町田泰彦

誰のものでもない場所をどうにか手元にたぐり寄せたくって、私は、いろいろなことを試しています。時には、建築土木をしてみたり、映画を撮ってみたり、今回のように文章を書いてみたり。ようやく指の先にちょこんと引っかかるような感触があったとしても、その手を伸ばしているのが私だということが意識されるので、それはすぐに隠れて消えてしまいます。そうなると、残念、という気持ちが湧かないわけでもないのですが、私は、私の手に、お気に入りのマグカップを持たせてコーヒーを注ぎ、できるだけ腹が座るよううからうからと過ごすことにしています。すると次第に空(くう)を切った私の手のことが、気にならなくなります。

家も本も、何かと何かが交わることを可能とするための器(もの)です。水と火はふつう出会いませんが、器をはさむと、水を満たして火にかけるような交流(こと)が可能となります。そういう交流ひとつひとつの積み重ねを生活というのかもしれませんが、器があまりにも強固になると、含むものととりこぼしてしまうもの、という分断を生みます。それなので、私は、家や本のもつ境界をできるだけないものに近づけたいという思いで、その円を閉じ切らないようにします。


家は、誰かに所有されるので、それが器から解放されたと実感するようなことはそうはないかもしれません。でも、建物を建てるプロセスにおいて、場所が、宅地とかではなくただずっとそこにあったということ、そしてそこに住むという巡り合わせた時間のことに住み手が触れることができたなら、家は、少しだけどこかへと溢れるようにしてその境界を緩めることになるでしょう。もしそれがあなたの家ならば、あなたの家が建つあなたの住む町は、名前からもゆくゆくは解放されていき、誰のものでもない場所へところころ転んでいくかもしれません。

映画「ハトを、飛ばす」(※)は、波にもまれてもみくちゃになって転がって、境界が強制的にないものとなった土地をハトの意識で眺めてみようとする、いたって個人的な試みでした。ハトが可視化する風は、われわれが定めたどんな境界もまたいでいきました。映画の中で、形而上的に定めた場所から湧くようにしてやってくる「声」がどうしても欲しくって、それをとある人に頼んでみました。どんな風の吹き回しか、その人がついこのあいだ「一緒に本を作りませんか」と私を誘ってくれました。そして、この本を出版する運びとなりました。

私は、今、その声がする方へと改めて向き直り、手を動かしながらもその手ができるだけ私から解放されていくように、うからうからと過ごすように仕事をしています。今のところですが、毎朝決まって上がる朝日を浴びているような囲いのなさの内にただあぐらをかいて座っている、そんな気楽なここちがしています。

※ 映画「ハトを、飛ばす」2016 年製作、町田泰彦監督作品

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